|
|
|
|
大坪 清氏 |
|
|
僕らの前は、大手前のバレー部は3部か4部をうろうろしていたと思うけど、 僕らは1部の2位で、大阪府下で2位までいきました。非常に頑張ったということです。 今でもこれ以上曲がらないのですよ。(手を見せて) バレーボールも頑張ったけど、学校を活気づけるのにいろいろ頑張った。 よく総会があったじゃないですか。講堂に座って、 後ろで野次を飛ばすのはいつも我々でした。そういう時代でした。 勉強するときは勉強したんですよ。当時の先生、綿谷先生、矢倉先生の両先生から悪の一派と見られていたけれども、 途中からバレー部が強くなって先生の見る目も変り、体育は点数が一気に上がって、 100点を付けてくれました。見るべき目を持っておられたのですね(笑) 綿谷先生のニックネームは「わたやん」。 もともと体育じゃなく社会科の先生だった。大手前時代にお世話になった先生はその二人と、 国語の村松先生、それから中村吉太郎先生、片山先生、皆紳士でしたね。それらの先生は我々の活動に理解を示してくれて 大手前全体を活気づけるために、 少々暴れなきゃいかんということで。 バレー部の顧問の中村三郎先生さんは別の意味で御世話になった。 バレー部のテーマソングである「いも掘りほい」の歌を歌いながらよく踊らされたものです。 実際お世話になったのは英語の中村吉太郎先生です。 女子もありましたが弱かった。その頃女子も強くしようということで岸田さんや津川さんらと 一緒にバレーボールの練習をして、5部から3部ぐらいまでにはなった。 時間差攻撃とフローターサーブ。 今、東京にいる小塩君、橘田君らと、 普通の練習をやっていては勝てない、特に西野田工業高校、堺商業、港高校、高津高校とか関大一高という学校が 強いだけではなく、体もはるかにでかい、幾ら飛んでも上から打たれる、 何か考えないといけないということで、まずサーブを考えた。 あのころは9人制で初めは上からドライブサーブを打つ。セカンドサーブは下から打っていたが、 セカンドも何か考えないといかんということで、いまでいう野球のナックルボールと同じ、 くっと押出してボールを回転せずに飛ばし、空気抵抗でボールがゆらゆらっと揺れる方法を考えた。 これを研究して成功させてどんどん勝った。高さの攻撃は相手のほうがうまい。高さではなく、 相手のタイミングが合わない打ち方を考えようということで、 時間差攻撃を考えたんですよ。 神戸大学でもバレーをやって、住友商事に入り、そこでも7年ほどやりました。 住友グループは、住友金属が強いので勝てない。住友化学も強い。だけど何とかしなくてはと努力し、 住友6社会ではいつも最下位だったのが3位になった。 僕らの時はずっと負けなしで24連勝した時もありました。 僕らは休憩時間にも自分でボールを上げて打つ練習をしていましたが、 よくみると今プロのバレーの選手がしているが、あれは我々もやっていた。 自分で上げて塀に向かって打つ練習をよくしていました。 そりゃおったでしょ。逆にアプローチがあったのもかなりあったのではないかな。(笑) 大洋工作所の辻君、日本タクシーの坂本長作君、小塩君、岸田君とか同期ではそこそこ連絡はあります。 女の子もメールを打ってきてくれたりする。同期でメールをもらうと、 大手前時代だったか、大学時代だったか、会社に入ってからだったか、 わからんようになる。それで打ち返したら大手前時代ですということで、 ああそうかということがあったりするんですよ。 大手前時代の思い出の1つに食堂がある。1年後輩の大野君のお父さんがやられていて、 お父さんにはよく応援してもらった。 マケてもらったり、カツレツを大きめにしてもらったり。 確か50円だったと思うけれど、どどーんと大きくしてもらったりしました。 九州の阿蘇山や熊本です。両方とも汽車で、関門トンネルを超えた。あの頃を思い出すと懐かしいですね。 女の子達ともいろんな話ができた。 運動場がとにかく狭くてね。本当にラグビー部が練習しだすとすぐけんかになったりしました。 大阪城一周マラソンもありましたたね。 次ページへ> |